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likeとrespectをひたすら愛でるためのブログ

【エッセイ】無知の境界線

Xでのポストをここに記録したいと思います。

 ↓

 

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10代の頃、

ミルクティーもレモンティー

好きだったので

 

どうしてみんな

「こんな美味しいものを

 混ぜてみよう」

って思わないのかと

 

イキった気分で

レモンティーにミルクを入れたら

地獄の飲み物のような産物が

爆誕した。

 

「ぼくのかんがえた最強の〜」って

だいたい悲惨な結果を招くよね

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既に確実性が証明されている事象に対して

①単純に知らなかった

②見聞きしたが失念した

③知っているが受け入れられていなかった

④批判的吟味をした上で採用している

という段階が存在します。

 

上記の例でいうと、

若かりし頃の自分は①のレベルでした。

 

もし、仮に家族や友人等、

身近な人がレモンティーとミルクティー

混ぜると大変なことになる

ということを知らせてくれていたら

回避できていたかもしれません。

 

ただ、②や③のパターンもありえます。

 

もちろん、

試行錯誤を覚悟して

未知に対して挑戦することによって

有意義な結果を招くこともあるかもしれません。

挑戦することそのものに価値はあることについては、

一旦論点から外して考えていきます。

 

ただ、そのようなケースを除いては

適切な知識を適切に知り、

適切に受容・採用していることが重要です。

 

愚者は経験から学び

賢者は歴史から学ぶ

という格言があります。

 

ここでいう経験と歴史との違いとは

自他との違いと捉えてみます。

 

経験は自分の過去であり、

歴史とは自分以外(もしくは自分も含む)の過去です。

要は、他人から学べるかどうかが

愚か賢かの違いを生んでいるとも考えられます。

 

しかし、前述の通り、

歴史を参照するためには④のステップが不可避です。

 

鵜呑みにしてはならないし、

かといって

頑なに逆張りして受け入れないことも

可能な限り避けたいものです。

 

したがって、

人が愚かに振る舞うパターンとして

次のような場合が考えられます。

・そもそも知識として触れていない

・知識を失念する

・知識として知っているが受け入れない

・不適切な知識を盲目的に信じる

・ありもしないことをでっち上げる

 

この罠を回避するには

ある程度の忍耐強さが必要になります。

 

そう簡単に適切な解に到達しないので

不確実な状態・環境に

しばらくの間、耐えなければなりません。

 

ここに

安直で単純明快な「答えのようなもの」を見つけると

ついつい飛び付いてしまいたくなるのが

人間の心理ではありますが、

大抵のことは単純な言葉で語られず、

どちらかと複雑かつ難解なことが大半です。

 

インフォデミックを一度経験すると、

いかに過去の知見を適切に活用することのが

難しいかがよく分かります。

 

本を読むことや他人の話を聞くことは

自分以外から出た言葉をインストールすることです。

そこから学ぼうとする姿勢として、

まずは文字通りの内容で受け止める能力が大事になります。

自分の都合の良いように解釈したり、

読解力の不足で誤認したりは避けたいところです。

 

また、

得た知識が信用に値するのかを

「主観」ではなく、

なるべく「客観」で判断しなければなりません。

 

ここでまた、

自分以外から発された知見に当たることになります。

そうしていくと、

何もかもが懐疑的に思えてしまうのです。

 

だからこそ

専門家が「断定」で語ることは難しく、

常に他の可能性を考慮し

ときにフワっとした語調になるのです。

 

 

冒頭のエピソードは

単純に過去の出来事を思い出して

「クスっ」となったために

文字として起こしたのですが、

その悲惨な結末を回避するためには

思った以上に障壁が多いと感じたので

その考察を述べてみた次第です。