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【書籍】山田ズーニー「考えるシート」

title) 成人の「ゴメンナサイ」

2020/09/21記

 

主語を広くするだけの根拠は無いので

まず「私」の経験に絞って

これまでのことを少し

振り返ってみたいと思います。

 

 

子どもの頃は

とにもかくにも喧嘩をしました。

兄弟げんか、友達との言い争い、

そして大人が仲裁に入って

「お互いゴメンナサイ」の儀式を経て

あとは時間の経過が忘却を促してくれます。

 

 

中学・高校になると少し賢くなるというか

くだらない争いが減ってくるのでしょうか。

それとも争いごと自体を避けたくなるのでしょうか。

あれほど頻繁だった喧嘩や感情のぶつけ合いが

嘘のように周囲から気配を消し始めます。

 

 

そうこうしているうちに

喧嘩のし方を忘れてしまったのか

争いが生じたときには

戸惑うようになりました。

 

十代の時期は外観上の争いごとは

減っているかのように見えるかもしれませんが、

陰口や誹謗中傷のような陰湿な方法に

シフトしていく傾向もあります。

 

直接の衝突機会が減ると同時に

今度は自分には見えないところで

自分に対する他人の言葉や感情が

飛び交うようになります。

 

その結果、争いごとにならなかったとしても

どこか自分の知らぬところで

変な噂やレッテル貼りが行われて

リアルの生活で身動きが取りにくなったりと

幼少期と比べて複雑な社会性が帯びてきます。

 

 

 

成人教育における「謝罪の指導」

 

さて、

そうこうしているうちに

大学生になり、社会人になり、

直接的な争いの機会が減った状態で

また、

自分の意思が届かない場所で

他己評価が知らぬ間に形成されて、

「謝ること」から遠ざかります。

 

自身の経験でしか分かりませんが

幼少期以降、

適切な「謝り方」ということを

教わったことが無いように思えます。

 

そこで出会ったのが

山田ズーニー先生の「考えるシート」です。

bookclub.kodansha.co.jp

 

謝罪の方法に困っていた

というわけではないのですが、

これから先の人生で

謝罪が必要になった場面において

大きな助けになってくれるだろう。

そんな予感が本を開いてすぐに生じました。

 

 

当の「謝罪の方法」のページは

コンテンツ冒頭の9ページから

26ページに該当します。

 

読みやすいので一気に読めてしまいますが、

雑に読み流してしまうと

大事なエッセンスを見落としてしまったり

適切に拾い上げられなかったりするので

丁寧に読み込むことをお勧めします。

 

自分にとっては「謝罪の方法」を

このように具体的に、かつ実践的に

一から考え直すことは新鮮でした。

 

 

 

考えるシートの要旨

 

詳細は山田ズーニー先生の書籍に譲るとして、

「謝るための方法」は次のようなフレームで

説明されています。

 

① 相手理解

② 罪の認識

③ 謝罪

④ 償い

⑤ 原因究明

⑥ 今後の対策

 

 

世の中には謝罪の体を為していない謝罪が

ありふれているということについても

書籍では言及されています。

 

内容の無い謝罪、

思考停止の謝罪、

結果的に自分と相手との

相互理解に繋がらないという残念な結果です。

 

過ちやエラーは

起こってしまうものですから

その後の言動というか姿勢・態度というか

そういった部分で

損をせず、うまく立ち振る舞うための方法が

「考えるシート」に記されています。

 

 

いちばん大事なことは①~⑥のように

「相手が関心のある問い」で

繋がろうとする努力だと感じました。

 

過ち、エラー、失敗、

何でも良いのですが、

悪い影響を与えてしまっただろう人に向けて

思いを馳せることが

本質的に大事なのでしょう。

 

過失をしたときの人間の心情としては

認知的不協和が生じていることも少なくはなく、

防衛機制が発動しやすい環境に陥っています。

そうなると、どうしても

自分のことばかり無意識に目が向きがちで

保身に走ってしまうことも仕方が無いのです。

 

でも、

そのような視野が狭窄しやすい状況下で

「相手の関心」

「相手の感情」

「相手の立場」などに

意識を向けられるかどうかで

真価が問われます。

 

 

自分の関心と相手の関心がズレているときに

コミュニケーションのエラーが生じます。

謝罪が必要な場面というのは

このようなエラーの温床と言えそうです。

 

もちろん、自分の心身の安全も大事なので

相手のみに目を向けるというよりは

両方にとって良い着地点を共有できるように

アプローチをすることが望ましいのでしょう。

 

 

子どもが「ゴメンナサイ」を言うときに

面倒ごとから早めに引き上げたいがために

咄嗟に謝ることがあります。

 

「謝りさえすれば済むんでしょ」

という深層心理が

そうさせているのかもしれません。

 

子どもに限らず、大人も同じです。

とりあえず謝っておけば

事が丸く収まるから謝っておく

という方法を無意識に取ってしまうことが

無いでしょうか?

 

この場合、

前述の「相手の関心」からは

大きくかけ離れてしまうことに

注意をしたいところです。

 

 

言葉では謝っているかもしれませんが、

中身を伴わないものであったり、

言動との整合性が取れないものであったりすると

謝罪の場面では不本意にも

自身の社会性やコミュニケーション能力が

炙り出されてしまうようです。

 

参考文献)

山田ズーニー「考えるシート」p9-26 講談社

 

 

 

 

相手の立場に立つということ

 

結語の前に、

ひとつだけ補足します。

 

幼少期の頃を思い出したので

そのときに感じた違和感について

ここで述べておきたいと思います。

 

それは「相手の立場に立て」

という言葉の曖昧さです。

 

大人から叱られたときに

この言葉を何度と言われたことか

正直、思い出せません。

 

一言で伝えようとするならば

確かに「相手の立場に立て」なのですが

その言葉に含まれた真意は

高等な技術のように思えます。

 

いわゆるメタ認知の能力なのですが、

メタ認知の出来ない輩が

「相手の立場に立て」と言われても

話が平行線になってしまうのは

多くの人が経験済みのことかと思います。

 

 

つい反射的に自身の価値観だけで

ものを言ってしまうことがありますが、

それではメタ認知から程遠いのです。

 

そう考えると

相手の立場に立つには、

「思いやる心」というような

中身の無い抽象的な概念ではなく、

確固たる知識と

相違を受け入れるだけの寛容さとが

必要不可欠だということが分かります。

 

 

言い換えると、

背景知識なしでは

また

相違を受け入れる寛容性なしでは

メタ認知は難しいということになります。

 

そのような意味で

子どもの頃によく耳にした

「相手の立場に立つ」ということが

とても高度な技術だという結論に達しました。

 

この「相手の立場に立つ」という

メタ認知の能力は

謝罪における技術、

つまり、「相手の関心」にも

通ずるものがあると考えます。

 

 

 

結語

 

冒頭で述べたように

主語を敢えて「私」に留めました。

 

私もなるべく謝罪はしたくないですし、

謝罪をするような場面の避けたいです。

ただ、いざ謝罪するとなったときに

どのように謝罪すれば

いわゆる「誠意」が伝わるのか

ということを考えたときに

この「考えるシート」のフレームは

現実でも応用の利く良いツールです

 

謝罪の方法を知りたい方や

謝罪の場面で困った方には

オススメの書籍です。

 

もちろん、書籍内の他のトピックも

とても為になるものばかりです。

 

・企画書

・志望理由書

・レポート

・小論文

・会議のファシリテート

・プレゼンテーション

という話題も含まれています。

 

 

結局は、自己と他者との大きなギャップを

埋める最良のツールは

思考であり、言語であるという

ありふれた結論に収束されるのです。